最近ロボットの話題が気になる。
ディズニー映画でも、携帯会社や缶コーヒーのCMでも、よく聞いているポッドキャストでも、
ロボットの話しを見たり聞いたりすることが多くなりました。
今日耳にしたお話し。
「ある会社がロボット犬のリアルな反応を見せる為に、そのロボット犬を蹴っ飛ばした。その反応が本当の犬とそっくりだったことで、蹴飛ばしたことに対して多くの批判があった」
蹴ったものはロボット。
蹴ったものを鉄の塊と見ていたとしたら、批判はでないと思う。
批判が出たのは、そのロボットが犬そっくりの行動と反応によって、本物の犬と同じに見られたということですよね。
そこで考えてしまいました。
ロボットと人間の境界線はなんなんだろう?
感情を持たないロボットに対して、その人間らしい反応や行動で生き物と同じ存在になりうる。
もしロボットが感情を持ったら、もうそれは人間と同じ存在になるのかもしれない。
人の身体を触る仕事をしているということで、深く考える必要があるなぁと思いました。
ものを扱っているわけじゃない!の意味は?
人間の身体を相手に仕事をしていると、とても緊張します。
それは相手はものではなくて、血の通った生き物だから。
《ものを扱っているわけじゃないからね》
人間や他の生物を相手に仕事をしている人たちにとって、よく言われる戒めの言葉でもありますよね。
一人一人違う、替えのきかない身体、こころを持った存在。
ものとは違うのは明らかである。
じゃあ、ロボット犬は上の定義からいくと物質になるのか??
あなたにとって身近なことってどこまで?
人間とロボットの境界線はそのもの自体にはなくて、私たちとの関係性にある気がします。
つまり、どれだけその存在を身近に感じているかどうか。
人が人のことを悲しんだり喜んだりするのは、自分に一番近い存在だから。家族や友達なら尚更そう思える。
その人に起きたことを自分に置き換えることができるし、その人との間には強い関係性がある。感情や考えを共有することができるから、強い絆ができる。
人間ではない動物でも同じ。可愛がっていた猫が死んでしまったら、自分の子供が死んでしまったように悲しくなる。飼い主にとってはなくてはならない身近な存在になっていたから。
一度でも行ったことのある国の出来事は身近に感じられるし、異国に友達がいたら、その国で事件が起きると心配になる。それは自分と近いものになっているから。
だから、もしロボットが人間と同じような行動や表情、そして感情を持つことになったら、私たちと共有できることが増える。
そしたら、もっと近い存在になるのかな。
注意を向ける姿勢
関係性を深めることによって、ロボットを身近な存在に感じることができる。
ロボットだけじゃなくて、動物も植物も、思い入れがあれば物質さえも。
身近に感じられることが増えることは、いいことだと思います。
身近なものには感情をもつことができる。喜んだり、悲しんだり、驚いたり、自分のことのように感じられることが増えますよね。
他人事が少なくなるってこと。
その為には、注意を向ける姿勢が大事なんじゃないかなとも思います。
人間関係の中で、スポーツの練習で、勉強で、テレビのニュースで、
注意を向けることで、もっと多くのことに気づくことができるし、幅広い関係性ができる。
《飲食店の店員さんと挨拶したら、そこから会話が弾むかもしれない》
《野球の素振りで手首の返し方を意識したら、スイングがスムースになった》
《ノートの取り方を変えたら、もっと覚えやすくなるかもしれない》
《中東に行った経験から、中東問題を勉強するようになった》
普段目を向けないものに注意を向ける姿勢から、もっと多くのことを理解できる。
理解できるから、関係性が強くなる。身近になる。
身体もきっと同じことだと思います。
身体は一番自分に近いものなのに、なかなか注意が向かない。健康な時は、痛みがないから、疲れがないから、不自由がないから、その存在自体を意識しない。
一旦身体が痛み出したり、疲れやストレスが溜まったり、不調が出てくると初めて身近に感じることができる。
普段意識しない身体に注意を向けることで、発見できることがたくさんあると思います。そうすると自分の身体をもっと身近に感じて、大事にしたいなぁという気持ちが強くなります。
注意を向けることで、自分を、身体を、大切にできる。
そうすることで、痛みや疲れ、不調などを事前に防ぐことも可能になります。
ロルフィングはそれを手助けできる一つのツールでもあると思います。
まとめ
話しが少しずれてしまいましたが、
人間とロボットの境界線は、その存在そのものにあるのではなくて、相対する私たちがどれだけ身近に感じることができるか・思い入れがあるかで決まるのかなぁと。
確かなことは、ロボットはまるいフォルムの方が可愛いっていうことw